サバイバル教師日記

教師3年目 日々の挑戦を書きます。

補欠の是非について

補欠時代を過ごしてきた青春

 僕は小中高ずっと野球をやってきましたが、試合に出れないときの方が多かったです。

 高校のときは同級生が23人いました。地元では野球が強く有名な高校でした。近隣の市から中学時代活躍していた粒ぞろいのメンバーが揃っていました。僕は実家から近く進学校であるという理由でそこの高校を選びました。野球をするかどうかも悩んでいましたが、中学時代の友人が4人も入ったので僕も入りました。

 高校時代は公式戦でベンチに入ることは全くありませんでした。審判などの試合の補助をやっている時間の方が長かったように思います。

 それならなぜやめなかったのか。ここで諦めるのはカッコ悪い。例え補欠で終わったとしても自分がやってきたことには意味があると思っていたからだと思います。親はいつやめてもいいと言ってくれていました。でも今は思います。部活に補欠というものを作っていはいけないと。

補欠はその子の人生の為になるのか

 試合に出れなかったとしても試合に出れなかったという経験は必ずいい経験だったと思える。という人がいますが、それは全くの根拠無しでただ正当化しているように聞こえてしまいます。ましてやその子の自尊感情は低くなってしまうと考えています。下手だから出れないのは自分が試合に出れないのは当然だ、自分はダメだ、と子どもは思ってしまいます。野球の世界ではベンチ入りした、ベンチ入りしていないというのは後の人生にも影響を与えてしまう可能性があります。ベンチも入れなかったのか。スタンドで応援していただけなんて可哀想。そう言われてつらい思いをする子どももいます。

 下手くそなんだから試合に出れないのは当然だろ。という人もいると思います。僕も高校時代もっとがんばれたと思うことはあります。人よりも全然ご飯を食べれず高校球児にしては細い体でした。食べるのも遅いし。練習をサボって監督に見捨てられたこともあります。でも部活というのはプロではありません。プロを目指しているわけではありません。教育は誰よりも頑張り誰よりも上手い人だけに機会を与えるものではないと思います。教育の目標はあくまでも人格の完成でありどんな子にも平等に機会を与え尊重するものだと思います。

大会というものが補欠を生み出している

 一発勝負のトーナメントが補欠を生み出していると言っても過言ではありません。負けたらそこで終わりと思ってしまうからこそ、勝てそうなメンバーしか試合に出さないということが起きてしまいます。トーナメントで勝つか負けるかそれだけがスポーツではないと思います。甲子園やインターハイなどの大会は大人が作り出した大人のエゴのような気がします。

地域部活動の子どもたちを見て

 前のブログ(部活動の本当のあるべき姿 - Story of My Life with Education)に書いたのですが地域部活動Paletteさんの子どもたちにインタビューをして、その子たちが単純に羨ましいと思いました。Paletteさんは文化系の部活が中心なのですが、競技性の有する大会には一切参加しません。子どもたちは一から自分たちでイベントを企画し、仲間と一緒に作り上げていく過程を楽しんでいます。そこに子ども間の優劣は一切感じませんでした。誰が先輩で後輩かも全くわかりませんでした。自分が経験してきた部活とは全く異なったものであり、自分もこういった部活をしてきたかったなと思いました。

今自分がやっていること

 自分は大学でアイスホッケー部の部長をしています。部長として大事にしていることは以前ブログにも書きました。(部活運営を『学び合い』で - Story of My Life with Education)自分はずっと補欠だったという経験もあり、全員に同じ機会を与えたいという思いは人一倍強いと思います。全員に同じ機会を与えることで、全体のモチベーションが上がります。自分はチームになくてはならない存在だと思うことで練習もするようになり全体の技術向上につながると感じます。

これからの部活

 これからの部活はどうあるべきか。文化系の部活動は地域部活Paletteさんが先駆者としてあるべき姿を見せてくれていると思っています。運動系の部活はこれからどうなっていくのか。それはやはり学校だけに縛られず、地域でリーグ戦などを組みながら子どもたちが自主運営していく形になっていくのではないかと思っています。高校野球ではリーグ戦を形にしているところも実際にあります。

 部活の今後の在り方は社会を変えると思っています。どうしていけばいいのか、もっともっと考えていきたいと思います。