サバイバル教師日記

教師3年目 日々の挑戦を書きます。

楽しい授業のコツ

初任指導の先生との文通?的な文章をここにも載せておこうと思います。

先生が書いたものに対しての僕の考えです。

(ここには僕が書いたものしか載っていません。)

 

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楽しい授業のコツ 

 

 ここで書かれていることは、今まで初任者研修の時間を通して学んできたことそのものである。

『ゴールをはっきり子供に伝える』ことは、自分自身、授業を構成していく上で最も大事にしてきたことである。子供たちにとって「なぜこれを学ぶのか?」という疑問は必ず浮かぶものであるが、そんなことを教師の前で質問したらしらけてしまうためできない。そのため、自分が何を学ぶのかがはっきりしないままただ“授業をやらされる”ことになってしまう。だから、なぜ生きるのか?なぜ働くのか?を考えないまま大人になってしまう人は多い。単純で大切なこの問いを教師自身が大切にできていないことは往々にしてある。教師の仕事の一つは、子供たちにビジョンを語り、一時間一時間のミッションをワクワクさせることだと考える。教師がそのミッションを提案するものもありだと思う。子供たちにとって幸せになれる目的を語れれば。しかし、子供たちからこれを最後にやってみたい!とクラスのみんながワクワクさせるミッションを引き出すことができたならば、それ以上の授業はないと思う。

 

『活動(遊び)を授業の軸とする』ことは、自分自身、3学期に入ってから、身についてきたものであると自覚している。国語「おにごっこ」は、クラスで一番、やってみたい!ってなる遊びの説明書を書けた人の遊びをすることを、最終的なゴールにすることを第1時の範読を聞いた後に子供たちに伝えようと考えていた。範読後、子供たちの「おにごっこしたい!」という声にびっくりした。「だから、最後の時間にみんなが考えた遊びをやるから。そっちの方が楽しいと思うから今はおにごっこしなくていいでしょ。」と諦めてほしいつもりで僕は子供たちに言ったが、子供たちの目はまさに今この瞬間おにごっこをしたくてたまらない目の輝きをしていた。そんな輝ている目を見て、今はダメだよと強く言えるだろうか。子供たちは今を楽しみたくてしょうがないんだ。でも、確かに、実際に体を動かしながら教科書を読むと、内容も一緒に理解してくれるんじゃないか?ちょっとそう思った。でも体育の時間でもなく、体操着でもないのに、グラウンドでただおにごっこをしていたら周りの先生はどう思うだろうか。職員室からグラウンドは丸見えだしな…。あ、教科書もってけば、なんか勉強してるのかなって思われそう…。よし、教科書ももっていこう、となったのだ。この遊んだ経験ができたのは、第2時でおにごっこの遊び方とその面白さをまとめる時に結果が出た。今まで、こういったまとめをする時に最後までまとめられない子は2・3人いた。しかし、今回は全員がまとめることができたのだ。分からないところは教え合ったりしていたが、教える時に、「これグラウンドでやったじゃん。あれだよあれ。」「あ~あれかぁ。」となる。体がまず覚えているため、子供たちは勝手に学ぶべきことを学んでいるんだ。

この、遊びから学ぶということは、国語だけでなく、算数もそうである。「長さ」の単元では、自分のうでを広げた長さを予想してから、実際にテープではかり、何cmかを当てるというものをやった。これもほぼ遊びである。友達と笑いながらくすぐったいとか言いながら測り合うことはまず楽しい。そんな中で勝手に数量感覚を覚えていく。どのグループが一番1mに近いテープを切れるか?というものもやったが、友達と協力しながら楽しくドキドキしながら長さについて学ぶことができている。

生活科の授業は遊びそのものであるし、体育なんて「水遊び」とか、「ボール遊び」とかもはや遊びってついちゃってる。「遊び」がいかに楽しく学ぶのに必要かは子供たちが教えてくれた。

 

『自分の立ち位置を示す』ことは、これからの教師人生で何回も使っていけるであろう、魔法の手法であると思う。今まで、国語、算数、道徳でこの手法を使って子供たちが対話を繰り返してきた。これを使うと、子供たちの立ち位置が可視化される。クラスみんなそれぞれの意見が黒板上に映し出される。そして体を使って黒板に自分のネームプレートを貼りに行くという作業も脳に良い影響を与えていると思う。授業を自分事として考え、いつ自分の意見を聞かれてもおかしくないからだ。算数では一つの正解があるため、その正解にたどり着くために、みんなで意見を出し合わないと正解にたどり着くことはできない。友達の意見を聞くことで誰がどこで悩んでいるのかが分かりやすくなるのだ。友達も手を差し伸べやすくなる。国語や道徳ではそれが「納得解」になる。これはただ正解があるよりも難しくなると思う。クラスみんなで意見の折り合いをつけていくことは容易ではない。しかし、その対話した過程がより重要になってくる。社会に出てから自分とは違う意見なんて山ほどあるが、それでいちいち対立していたら生きづらくなってしまう。どこかで折り合いをつけていくしかないところはある。職員室でもそうである。これは子供たちが社会に出てから色んな人と問題を解決していく手法であり、学校で何かを学ぶ意義でもある。